本記事では、カント倫理学でよく耳にする、仮言命法という考え方をご紹介したいと思います。
1.手段としての行為
仮言命法を、カントは、自分に敵対した見解(立場)として紹介している。この点を見失うと、カントの議論全体の方向性をも見失ってしまう。
では、カントが自分に敵対した見解として何を想定していたかというと、目的手段思考(teleological thinking)である(注1)。
小難しい言い回しを使ってしまったが、なんてことはない、私達は行為を選ぶ時、特定の目的を実現しょうとして、その行為を選ぶ。
私は講義に出る(行動選択)、単位を取るために(目的)。
この時、行為は、特定の目的を実現するための手段となる。
カントは、そうではなくて行為そのものを目的とするように考えることを求めた。これが彼の義務論の真髄で、そこにおいて行為は「非手段」という意味での目的とみなされる。
よくカントを読んでいて出て来る「行為そのものを目的として」という言い回しは、この文脈で理解しなければならない。つまり「目的」というよりも「非手段」として、行為は目的とみなされる。
目的=非手段
あまり「目的」という言葉の意味を積極的に取って、カントの文言「行為を目的とする」を読み込もうとすべきではない。そこ(目的)には「非手段」以上の意味はない。
2.必勝法としての仮言命法
カントは目的手段思考を自分に敵対する立場だと考えていたのだが、それを具体化して定式化したのが仮言命法だといえる。その形式は以下のとおり(注2)。
仮言命法の形式:いかなる人もAしたいならば,Bすべきだ.
Aが目的,Bが選択された行為となる。
このカントの(目的手段思考の)定式化は、やりすぎではなかったか、と私(管理人)は今では思っている。
というのも実際、仮言命法の例を考えてみればよい。
仮言命法の例:いかなる人も宇宙飛行士になりたければ,あの学校に通うべきだ.
なかなか良い例が見つからないのだ。
仮言命法が上手く行かないのは,目的と手段の関係に普遍性(「いかなる人も~」)を持ち込もうとしているところにある。しかし、実際のところ、私達が特定の目的(例えば、宇宙飛行士になること)を実現するために、誰にでも当てはまる普遍的な方法(手段)を手にしていることはない。この当たり前の事実が、仮言命法をキレのないものにしている。
3.仮言命法ではなく功利主義
要するに仮言命法は、或る種の必勝法を求める立場だと言える。特定の目的を絶対に、つまり普遍的に実現する必勝法を提供するのが仮言命法なのである。
しかし、目的手段関係を考えるのに、普遍的にそれが成立することを求める必要はない。
特定の目的を実現するために、なにかしらの手段を選ぶのは、イチ個人の信念のなかで思い浮かべられることでしかない。
このレベルで目的手段関係を考えているのは、やはり功利主義だといえる。
注
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注1
目的手段思考(teleological thinking)については下記記事でも取り上げたが、要するに功利主義のことである。

注2
仮言命法の形式については『カントの倫理学ー正しく考えるために』第2講にまとめてある。



コメント(ディスカッション)
表題違いかもしれませんが、質問させていただきます。間違っていましたら申し訳ありません。
「カントの倫理学」〜正しく考えるために〜 第5講 21 「万人の統合された意思」より、満場一致の普遍化が達成されるのは、ダイアローグではなくモノローグによると記載がありますが、モノローグを行う個人が何故一般意志の担い手となるのか、教科書の説明では今ひとつ理解が出来ませんでした。
私の感覚では、モノローグのような個人の意識しか介在しない問答が一般意志を代表してしまうのは違うのではないかと考えてしまいました。詳細な説明をしていただけると幸いです。
返信遅れて申し訳ないです。また、良質な質問ありがとうございます。
一応、回答しますが、あくまで私見(また教科書の意見)です。
「匿名明大生」さんが、違ったように考えてくれても、まったく構いません。
一般意志を「代表」する場合には、少なくとも3つケースが考えられます。
①その名の通り代議制(代表者による民主制)。しかし、この場合は、多数決(全体意志)しか生成しません。満場一致が成立しない、と考えてもよいです。
②一般意志という言葉を作ったルソーは、(ギリシア的な)直接民主制を強く推しましたが、これは①と同じ結末に至ると思われます(つまり全体意志しか生成しない)。ルソーは直接民主制では、民衆が真摯に国政に参加することにより満場一致が得られる、と考えたようですが、細部がわからず(強弁しているようにも見える)、私(当サイト管理人=教科書執筆者)には納得が行きませんでした。
③現実世界でいえば、私(同上)は、「個人が一般意志を代表する」というのは、帝政的な発想だと考えてます。現実には(まだ世界史的細部を詰めて理解していないですが)初の成文法といわれるドラコンの立法、あるいはナポレオン法典のようなものがモデルとして考えられます。立法の事実にこだわらなければ、ローマ皇帝、さらにはフリ―ドリヒ二世(カントが生きたプロイセンの国王)に、そういった発想は見て取られます。
ただ、急いて付け加えなければならないのは、「じゃあ、下々の(しもじもの)私たちは、お上(かみ)の立法者に従わらなければならないのか」というと、そうではない、ということです。
現実問題として、誰しも一般意志に合一化する(それを代表する)ことは不可能です。これは「匿名明大生」さんが違和感を覚えた通りです。しかし、倫理的な問題を考える上で、誰もが皇帝的な視点で考える(オレは偉いんだ、と思うことではなく、私利を徹底的に配した共同体的な視点を取る、ということです)自由はあってよいと私は考えます(講義で「理性」だとか「啓蒙主義」を熱弁したのは、そのためです)。
この意味で、実際には代表できなくても(これは「匿名明大生」さんが違和感を覚えた通りです)、理念的には(あるいは倫理的問題を考える気概として)、誰もが一般意志を、自分一人で考えることにより代表することができる、と言えます。
もちろん、そんなことを許せば意見の食い違いが生まれますが(オレが代表したと思った一般意志は、オマエの一般意志とは違うetc.)、私は、それが倫理的な議論ありのままの姿だと考えます。例えば、裁判官の判決なんかが、それに似ているのではないでしょうか(司法と立法の違いは、この例ではポイントになっていません。混乱するなら別の例で考えてもよいです。国会議員の意見の違いとか)。
誰も、ルソーの想定するような天才としての立法者にはなりきれない、というのが倫理のありのままの姿だと思います。