Immanuel Kant , c.1790
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出典:https://www.worldhistory.org/Immanuel_Kant/
2024年6月に『カントの倫理学ー正しく考えるために』出版を計画しています。

本記事では、『カントの倫理学ー正しく考えるために』に先立ち、カント倫理学の著作のガイダンスを試みたいと思います。
出版前なので、主な立ち入った参照元としては拙著『リンリのロンリ』=『リンリの教科書』を使わせてもらいます。
1冊目『倫理の形而上学の基礎づけ』1785年出版
難易度★★☆
『道徳形而上学の基礎づけ』ひと昔前は『道徳形而上学原論』とも訳されていた、なかなか定まった邦題のない著作ですが、カントの倫理学のなかでは一番読まれています。
原題はGrundlegung der Metaphysik der Sittenといいます。
そのドイツ語原文:https://amzn.to/3RnICWm (コメンタリーは抱き合わせ)
英訳:https://amzn.to/45i2sYW Groundwork for the Metaphysics of Morals
ペイトン(Herbert Paton 1887-1969)が有名な道徳法則の5定式を読み取ったのも本著作です(注1)
具体例が豊富なのも本著作の魅力です。これはカントのみならずドイツ語圏の哲学者には非常に稀に思えます。一番有名な例は供託物(預かりもの)の例でしょう(注2)。
2冊目『実践理性批判』1787年出版
難易度★★★
三批判書(『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』)として有名なのが本著作です。
カントは理系的な仕方で(本著作内で)倫理学の用語を定義しているのですが、たとえメタ倫理的という意味で賞賛されるのであっても、私にはわかりにくい、というよりキレがないように感じました。
多くの研究者が本書を『基礎付け』(1冊目として紹介した上掲著作)を補うために参照しているはずです。
つまりメインで読む著作ではない、ということです。
3冊目『法論』1797年出版
難易度★★★
第1冊目『基礎付け』そして第2冊名『実践理性批判』も含め、カントが現実の倫理的問題を解決しようとして書いた著作です。
正式名称は、以下の通りです。
Metaphysiche Anfängsgründe der Rechitslehre
英訳:The Metaphysical Elements of Justice; Part I of the Metaphysics of Morals.(下記『徳論』と分けて出版されていることは稀かも知れません)参照:Wikipedia Metaphysics of Morals
具体的には、民事、刑事に及ぶ法律の問題に対するカントのスタンスが見られ、非常に興味深い作品となっています。
個人的にはカントの倫理学の著作の中で一番好きです。それは、倫理の問題を考える時は、やはり現実の問題に直面していることが多いからでしょう。
4冊目『徳論』1797年出版
難易度★★★
第3冊目『法論』に続くカントの晩年の著作です。
倫理学では、功績的と拘束的を区別することがあります。というより、この区別を立てて議論することは非常に有益です。
功績的(meritorious)
:カントのいう不完全義務(独 unvollkommene Pflicht)
:必ずしもやる必要のない行為の特徴づけ。一般に「倫理的」と呼ばれるのは、この類の行為。
例:お年寄りの重い荷物を持ってあげる。勤勉に生活する(朝4時に起きて勉強など)。
↑↓
拘束的(obligatory)
:カントのいう完全義務(独 unvollkommene Pflicht)
:社会の成員である以上(というより特定の共同体に属している以上)、必ずやらなければならない行為。
例:税金を払う。人殺しをしない。
・・・
上記3冊目『法論』が完全義務(拘束的行為)を扱うのに対し、本書『徳論』は不完全義務(功績的行為)を扱う、といえます。
完全義務(拘束的行為)は法律で規定されている行為のみを扱う、と理解すれば大概大丈夫ですが、「自殺をしない」などという法律では扱っていない行為も完全義務(拘束的行為)に含まれます注3)。
『法論』と『徳論』は合わせて『人倫の形而上学』と呼ばれる
3冊目に紹介した『法論』と、4冊目に紹介した『徳論』は、合わせて『人倫の形而上学』と呼ばれます。
ドイツ語での書名はDie Metaphysik der Sittenです。ここら辺は文献学的に込み入った事情があるようです。
付:徳論倫理について
私(本記事執筆者)は、徳論倫理(virtue ethics)とは、上記カントの『徳論』の意味で捉えればよいと思っているのですが(つまり彼の著作4冊目で扱う範囲で捉えればよい)、巷で徳論倫理といった場合には、アリストテレスの人格陶冶(倫理的行為の習慣化)が念頭に置かれているようにみえます。
この点について嘗て拙著で論じた箇所を引用し、本記事を終えたいと思います。
『新版 心の論理』pp.172-173注1
徳論倫理(virtue ethics)とは、カント主義と功利主義に比肩する倫理学の第三の立場で、その代表は紛れも無く「中庸(μεσότης)」を説いたアリストテレスであろう。彼は、徳そのものを次の通り定義している。
徳(ἀρετή)とは、決定されたロゴスにおいて(ἐν…ὡρισμένῃ λόγῳ)、即ちフロネーシス(賢慮)ある人が決定してしまった様にして、行為選択をするヘクシス(ἕξις προαιρετική)のことである。(Aristoteles 300B.C., 1107a)
ヘクシスとは「状態」を意味し、アリストテレスはこれが「感情(πάθος)」 や「能力(δύναμις)」とは区別されるものであることを慎重に説いている(Aristoteles 300B.C., 1105b-1106a)。
これだけで、道徳の「感情」性を強調するヒューム(道徳感覚説)や、実践理性という「能力」を強調するカントとの溝は埋め難いものと成ってしまうのだが[中略]、外見上のものとしか見做されない。つまり私達は、徳論倫理が、功利主義にもカント主義にも登場していると考えるのである。
[中略]ヒュームにとって徳とは、ベネボランスであり正義である[中略]。
次に、カントにおける徳の位置づけだが、これには彼特有の「徳義務(Tugendpflicht)」の概念が係って来る(Kant 1797, VI383)。徳義務の中には「完全義務」例えば「自殺をしてはならない」も含まれるが、私達がここで注目するのは「不完全義務」特に「自分に対する不完全義務(unvollkommene Pflicht gegen sich selbst)」である(Kant 1797, VI444 ; Kant 1785, 423)。
カントは手短にそれを「自己完成(eigene Vollkommenheit)」だと言っている(Kant 1797, VI386)。[中略]それは「同時に義務である目的(Zweck, der zugleich Pflicht ist)」だとも、カントによって言われる(Kant 1797, VI385)。
そういった概念を私達は既に道徳法則に関する議論で見出している。即ち「人間性」、これがカントにおける徳の正体なのであり、それを(目的であると)同時に義務として追求することが、カント哲学における徳論倫理の位置づけなのである(§90-§91)。
[中略]
徳義務としてのその「不完全性(自分に対する不完全義務)」は、決して意志決定における不完全性ではない。カントの倫理では、意志決定に迷いは生じない(§80)。むしろ現場を離れ、改めて義務の根拠を問う時の思考の「よどみ」、それに似たものをカントは「不完全」と形容したのではないか。そしてこれが、徳を「強さ(Stärke)」とも定義しているカントへの、私なりの解釈なのである(Kant 1797, VI394, VI405)。
注
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注1
『リンリのロンリ』=『リンリの教科書』 p.97に詳述。機会があったら本サイト内でも取り上げます。
注2
『リンリのロンリ』=『リンリの教科書』 p.211に詳述。機会があったら本サイト内でも取り上げます。
注3
この点については『リンリのロンリ』=『リンリの教科書』 pp.142f.で詳述しています。機会があったら本サイト内でも取り上げます。

![道徳形而上学の基礎づけ (岩波文庫 青625-1) [ カント ]](https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/book/cabinet/0397/9784003860397_1_3.jpg?_ex=128x128)


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